ブレックファスト・クラブ

 飲まない人に怒る人、の話。

 世に言うparty peopleには「酒そのものが好きな人」と、「飲み会が好きな人」がいるように思われる。洒落者の空気を纏うのは前者だが、僕は残念ながら後者だ。飲み会の予定が入ると、心が躍る。

 あまり遭遇したことは無いが、世間には下戸が宴席に加わることを嫌がる人もいるらしい。ハードコアな飲み会好きは、酩酊していない人が視界に入るだけで神経を逆撫でされるのだろうか。そういう人と盃を交わすには勇気が要りそうだ。

 思うに、飲まない人に怒る人は、お酒を飲んでいない=飲み会に参加していない、と考えているのではないだろうか。飲まない奴がいると白ける・興ざめだ、というのはつまり、俺たちの輪を外から眺めるのはよしてくれ、という意味だ。確かに、盛り上がっている様子を冷ややかな目で見られるのはなかなか辛い。かといって、この手の言説が正しいとは思えない。暖かい目で飲み会を見つめてくれる素面の方も大勢いるはずだ。素面の人が混ざってたって、いいじゃない。飲まない奴は男じゃねぇ!という安直なマッチョイズムを軽やかに躱すには、やはり「飲み会の機能」についてよく考えてみる必要がある。

 「飲みニケーション」なるセンスの欠片もない言葉がある(これを考えた奴はワンカップ大関に溺れて死んだほうがいい)。この言葉は、宴席はコミュニケーションの場として重要だ、という価値観の現れと考えられる。ここで言うコミュニケーションが、オフィシャルな場での情報交換ではなく、プライベートな場での精神的な交流を指すことは明らかだろう。乾杯→酩酊→個人的な話(俺、本当は内館牧子先生に顔面騎乗されながら「ドルジ!あなたに横綱の品格はあるのッ!?」って罵られたいんだ)→BEST FRIENDS→そして伝説へ…という流れは、翌日以降の人間関係を円滑にする。というわけで、独断のもと、「飲み会の機能」とは「仲良くなる」ことだと定義したい。

 「飲みニケーション」は、「酔っぱらってぶっちゃけて仲良くなる」というメソッドだ。おそらくポイントは「酔っぱらって」という部分にある。酩酊して警戒心が薄まった状態で、建前を取り払い本音で付き合う。素晴らしい。しかし、このような場に素面の人間がいると、どうなるか。本音を交わす人々のなかにあって、一人だけ建前という鎧を脱がない奴がいる。これでは仲良くなれない。けしからん!ザラキ!飲まない人に怒る人の思考回路は、まぁこんなところだろう。

 ある疑問が頭に浮かぶ。果たして、本音を話して仲良くなるのに、「飲み会の機能」を享受するのに、アルコールの力を借りる必要があるのだろうか?僕はそうは思わない。思い返せば、お酒こそ飲んでいないものの、飲み会的な雰囲気の場に居合わせたことは何度もある。例えば、部活の帰り道。修学旅行の夜。文化祭の片付け。ああいった時間に流れる「祭りのあと」の雰囲気は、まさに飲み会的だ。飲み会はしばしば「打ち上げ」として催されるが、これって要するに部活帰りにファミレスに寄るのと同じことだ。何らかの体験を共有した人たちが、思い出話に花を咲かせて、仲良くなり、明日への活力を得る。それが飲み会だ。飲み会を開くのに、お酒は必須ではない。必要なのは、くだけた雰囲気と、楽しく語らいたいと思える相手と、数時間座れる場所だ。

 下戸の人が飲み会に来るというのは、大変に勇気の要ることだろう。冷ややかな視線を浴びせられないか、ドキドキしているに違いない。僕のような「飲める側」の人間に出来るのは、下戸の人が飲み会にきてくれた=仲良くなりにきてくれた、という事実に喜び、感謝することだ。飲まない人に怒る人は、そこらへんをはき違えている。下戸の人は「わざわざ」「自分が少数派になるのに」飲み会にきてくれたのだ。彼/彼女は、あなたと仲良くなる用意がある。それなのに、お酒を飲まないからって怒るのはあんまりだ。もし、下戸の人が心底嫌がっているのなら、即刻解放してあげるべきだ。もし、本当に痛飲したいのなら、下戸の人を呼ぶべきではない。素面で酔っぱらいの介抱をすることほど、不愉快なことは無いからだ。

 お酒が苦手な人は、不愉快な思いをすることも多いだろうけれど、どうか萎えずにたまには飲み会に来てみて欲しい。きっとそこには、普段聞けない友達の秘密とか、普段見られない友達のチンコとか、普段は燃えないチン毛の焼けた匂いとか、そういうものがある。警戒心を少し下げて、是非輪に加わって頂きたい。飲み会って、楽しいよ。

 あ、合コンは行ったこと無いのでわかんないです。ホントに。とりあえず生!