ヘビーローテーション

 消費と表現の話。

 ぼんやりとした概念について考えるときは、対義語を思い浮かべることにしている。なにかを定義したいとき「なにであるか」を指し示すより「なにでないか」をよりわけるほうが、手っ取り早いからだ。

「消費」の対義語として真っ先に頭によぎったのは「生産」と「貯蓄」だった。とはいえ、まともに生産活動に参加せず、ろくに貯金もない僕にとって、この二つの単語はかなり縁遠い。消費の対義語として、僕は「表現」がしっくりくる。

表し現れる「ではない」のが消費だ。消し費やすこと。あまりいいイメージではない。クリエイターをもてはやすことはあれど、コンシューマーを讃える言葉はあまり見かけない。消費は表現に奉仕する行為なんだろうか?ファンあってのアーティストですから、という手触りのいい教科書的な物言い以外に、消費者を擁護する方法はないのだろうか。

消費すること、消費者であることそれ自体に、なにかポジティブな意味付けはできないだろうか。僕は、漫画やアニメや映画や小説、あらゆるコンテンツを消費してきた、している、するであろう自分を肯定したい。する必要があると思う。なぜなら、僕たちはみな、一生のうち長い長い時間を、消費者として過ごすだろうから。これから先ずっと関わる営みに、独自の価値が見出せないものか。思い込みでもいいから。

消費について考えるためには、表現について考えなければならない。表現するとはなんだろうか。立場を明らかにすることだ、と僕は思う。なにかに光を当てるということは、どこかに光を当てないということだ。「Aは素晴らしい」という態度を表明した/表現した人が、同時に「Aは最低だ」と語ることはできない。あらゆるクリエイターは、自らの問題設定に向き合わざるを得ない。賭ける、と換言してもいい。表現することは、なにかをクリエイトすることは、賭場に座ることだ。表現者として振舞う以上、人はチップを差し出さなければならない。

消費者であるということは、賭場に座らない唯一の方法ではないだろうか。一人のコンシューマーとして、僕たちは「Aは良い」「Aは悪い」という表現を同時に享受できる。無責任であることができる。アンビバレントな状態に身を置けるのは、消費者の特権だ。表現者にとって「Aは良くもあるし、悪くもある」というのは、チップの積み方の一類型でしかない。表し現れる主体は、その立場を定めることを強いられている。ふわふわと漂っていられるのは、消し費やす主体だけだ。

前言から翻るが、見方によっては、人は簡単に表現者に転げ落ちる。生活は、意識/無意識の細かな決断、すなわち表現の連続だからだ。一方で、消費者には、消費者にだけは、猶予が与えられている。態度を表明しない権利。意見を持たない権利。二律背反を丸呑みする権利。チップを差し出さずに賭場を眺め楽しむ権利が与えられている。表現、すなわち決断することが成熟の一つの形であるならば、人に残されたモラトリアムはあまりに少なく狭い。ほとんどない、と言ってもいい。だからこそ、消費だけは、表現=決断=成熟に抗うフロンティアとして、生活のなかに残しておいてもいいのではないかと思う。良し悪しや善悪の判断を一切挟まず、ただ楽しむ。対立するテーゼを、エンターテイメントとして甘受する。そういう瞬間を日々に設けておくことには、ポジティブな意味があると思う。表現に追われつづける日常の、わずかな木陰として。

もっとも、日々のほとんどを消費者としてのんべんだらりと過ごしている下等遊民である僕にとっては、決断こそが非日常かもしれない。表現のときが迫っている。決断をぶちかます時が近づいている。成熟しなければならない。今年のAKB総選挙、僕は大島優子に投票します。