『ヒミズ』

 映画の話。

 新宿バルト9で『ヒミズ』を観てきました。夜の映画館は落ち着いた雰囲気で心地よかったです。原作に関する知識も特になく、監督である園子温さんの作品も未見だったので、かなりまっさらに近い状態で観ることが出来ました。面白かったので感想を書いてみます。

(追記)ネタバレ全開で書いてしまいました。ご容赦下さい。

 あらすじはこんな感じ。

 住田くんは「普通の、立派な大人になること」にこだわる中学生。被災地近くでボート屋を営んでいる。ボート屋の敷地の中には、夜野を始めとする被災者たちがテントを張って暮らしている。住田くんのことが気になる同級生の茶沢さんは、彼の家に押し掛けてボート屋を手伝うようになるが、あまり取り合って貰えない。暴力を振るう父親を殴り殺した住田くんは、絶望を深めて「世のため人のため」悪人を殺すべく夜の街を徘徊するようになる。 

 僕が『ヒミズ』で興味深かったのは、住田くんを取り巻く人々が、彼の名前をとにかく連呼するところです。ボート屋の空き地に住む人々は「住田さん」と彼をしきりに呼ぶし、茶沢さんも「住田くん!」と元気よく彼に声をかけます。興味深いのは、住田くんとの心理的な距離が離れている人は、彼の名前を呼ばない、ということです。例えば、ヤクザの金子は彼を「ボート屋」と呼びます。住田くんのお父さんとお母さんは「ねぇ」とか「お前」といった調子で、名前を呼ぶ気がまったくなさそうです。

 茶沢さんは「住田語録」を自室の壁に貼り付けているなかなかイルな女の子ですが、そこに大きく掲げられているのが「ヒミズになりたい」という言葉です。ヒミズ、というのは、もぐらのことみたいです。もぐらになりたい、というのは「普通=社会との繋がりが滑らか=目立たない」という発想なのかな、と僕は考えました。映画序盤の住田くんは決して無口ではありませんが、人との過度な繋がりを嫌がる傾向にあります。茶沢さんを軽くあしらい、テントに住む人々とそっけなく話す住田くんは、「人嫌い」というより、「特別な関係を構築したくない」といった雰囲気です。
普通でいたい、支障なく生きていたいが為に、コミュニケーションを「無難にこなす」ことに終始する住田くん。対照的に、住田くんと深く繋がろうとする茶沢さんとテント暮らしの人々。物語が進むにつれて、両者の溝は深まっていきます。

 『ヒミズ』が面白いのは、住田くんが父殺しを果たし、絶望を深めるのと同調して、周囲の人々の住田くんに対する期待がどんどん大きくなっていくところです。住田くんがダメダメになっていくにつれて、茶沢さん&テント暮らしの人々が住田くんに向ける愛情が深まっていくのです。茶沢さんは「なんでそんなに住田くんが好きなの!?」と突っ込まずにはいられないくらい彼に尽くすし、夜野は住田くんにテントを置かせてもらったお礼としては過度な恩返しをします。茶沢さんと夜野は、住田くんに尋常ではない期待を寄せ、彼を愛します。当の住田くんは、厭世的な気分に染まっているのに、です。絶望する彼を「住田さん」「住田くん」と呼ぶ夜野と茶沢さんの声は、もうほとんど絶叫のようにエスカレートしていきます(ホントに後半は絶叫してばっかです)。この対比がユーモラスであり、同時に作品全体を貫くメッセージにもなっているのだと思います。

 「名前を呼ばれる」というのは、ただひとりの存在として認知される、ということです。それは、住田くんの言う「ヒミズになりたい」とは真逆のあり方です。「ヒミズになりたい」とは、どういうことか。それはつまり、認知されたくない、ということです。当初、住田くんは、コミュニケーションを滑らかにすることで「名前のない人」になりたがっていました。それが彼の言う「普通の、立派な大人」です。父殺し以降、悪人を殺すべく包丁を持って街を徘徊する住田くんは「世のため人の為に機能する機械」になろうとしていました。換言すると、映画前半の彼は「社会のなかにいる、無名の善人」を目指しましたが、後半の彼は「社会から外れた、無名の善人」を目指した、といったところでしょうか。エキセントリックな行動にびっくりさせられますが、住田くんの行動はある意味一貫しています。そして、彼の思想信条「ヒミズになりたい」という言葉に集約されます。

 結局、住田くんの試みは失敗します。茶沢さんの説得に応じた彼が自首するために警察署に向かうシーンで、この映画は終わります。住田くんがヒミズになれなかった理由は単純です。それは、「誰かに愛されるかどうかは、最終的には自分では決められない」からです。住田くんがどれだけ拒絶しても、茶沢さんは彼にべた惚れだし、夜野は彼を「希望だ」と断言します。それは、住田くんの意志ではどうしようもないことです。だって、好かれてしまったんだから。とはいえ、好かれてしまったあとどうするかは、好意を寄せられた人の自由です。住田くんは、茶沢さんに押し切られるかたちで自首を決めました。散々絶望した彼は、最後に「希望に負けた」のです。この映画は、住田(=絶望)が、茶沢さんと夜野(=希望)に打ちのめされる映画です。住田くんの絶望が繰り返し描かれるからこそ、ラストシーンの「住田、がんばれ!」という叫びで世界が一気に反転する瞬間が、エモーショナルなものになるのだと思います。

 『ヒミズ』は、とても誠実な映画です。なぜならば、周囲の人々が住田くんに叫ぶ「がんばれ」という言葉の無責任さについても、しっかりと描かれているからです。「がんばれ」は、とても身勝手な言葉です。がんばれ、と声をかけたところで、言葉を発した当人は究極的には無力だし、相手の行動を直接どうこうすることが出来ないからです。映画序盤でも「がんばれ」「がんばろう」という言葉は頻出しますが、そこでは非常に空疎に響きます。『ヒミズ』は、「がんばれ」という言葉が持つ、ある種の暴力性(=言うのはタダだけど、がんばるのは大変)を残酷なまでに強調します。しかし、この映画は「がんばれって言っても意味ないよ」というペシミスティックな結論に逸れることなく「それでも、がんばれって言うしかない」という結末に到達します。とても力強いメッセージだと思います。

 「かけがえのない人として、名前を呼びかけること」「誰かにエールを送ること」どちらも、無責任な行為です。それを、相手の都合を考えない、身勝手な行いだと糾弾することは容易い。誰とも深く関わりたくない、無色透明でいたいと願う住田くんにとって、茶沢さん、そして夜野が送る強烈な愛は、ひどく迷惑なはずでした。でも、父殺しを経て精神を病み、視野狭窄に陥った住田くんを救ったのは、紛れもなく茶沢さんと夜野の献身です。

 人は無責任にコミュニケーションのチャンネルを繋いでしまうし、チャンネルを「繋がれる」ことは避けられない。ヒミズにはなれない。そして、かけがえのない相手に心からのエールを送るときでも、そこには必ず(たとえ真心からの「がんばれ」であっても!)無責任が混入してしまう。でも、それでも、敢えて「がんばれ」と言ってしまう、言うしかない、そんなときがある。そして、無責任な言葉によって、人が救われることもある。これが『ヒミズ』という映画を貫くテーマだと思います。コミュニケーションは、まさしく、あられもない祈りなのです。そして、無責任な気持ちをぶつけられることで、救われることもあるのです。それが「希望に負けた」ということなのだと思います。住田くんがギリギリのところで茶沢さんの説得に応じたのは、希望、すなわち、無責任ゆえに誠実な、心からのエールに心動かされたからです。住田くんは、「ヒミズになる」ことはできない。茶沢さんは、無責任に「住田、がんばれ!」と叫ぶしかない。それでも、茶沢さんは叫ぶし、住田くんは応えた。希望に満ちた映画でした。

 
 その他、細々とした感想を、いくつか。

 
 ・テントに暮らす人のひとりを演じる吹越満さんは、相変わらず素晴らしい演技でした。この人は本当にお芝居が上手い。こういう人が現実にいるとしか思えない抜群のリアリティで、すこし頼りない被災者を演じていました。

 ・対照的に、スリの役で出てきた窪塚洋介は、最初から最後まで窪塚洋介でした。まさにスター。吉高由里子ちゃんをぞんざいに扱うシーン、「脱、原発!」って叫びながらドロップキックをカマすシーン、すべてが最高にかっこよかったです。「窪塚洋介なら、マジでやりそうだ…」っていう、とんでもない説得力がありましたw

 ・被災地の映像がたくさん出てきますが、僕はあまり必要ないのかな、と思います。地震をきっかけに、作品の筋書きを変えたそうですが、これと被災地の映像を実際に使うことは同義ではないし、被災地の映像が挟まることの映画的な機能もよくわかりませんでした。単に、僕が被災地の映像を観てもあまり心動かされない、というだけなので、被災地の映像の要否は人によって意見が分かれるところかもしれません。僕が無感動な男なのか、慣れてしまったのか、そこのとこはよくわかりません。

 ・茶沢さんがとってもかわいかったです。あんな子に好かれるなんて、住田くんは幸せ者だなぁ。