『桐島、部活やめるってよ』 

 映画の話。

 話題の『桐島、部活やめるってよ』を見てきました。頭のなかを色んな言葉が巡ってうるさいので、安眠するために感想を書きます。ぼんやりネタバレします。

 『桐島』の物語は、バレー部キャプテンで成績優秀、彼女は校内屈指の美女という、スクールカースト(生徒のヒエラルキーのことです)の頂点に君臨する「桐島くん」が突然部活を辞め、学校を休んだことをきっかけに動き出します。「桐島くん」の不在に、登場人物たちは多種多様な反応を見せます『桐島』は、高校生の微妙な人間関係とささやかな成長、そして挫折を描いた群像劇です。

 「桐島くんと親しい人ほど彼の不在に影響される」という鉄の掟がこの物語を支配しています。ストーリーの中心を担うのは、野球部の幽霊部員で可愛い彼女がいる運動神経抜群の冷めたイケメン・宏樹と、クラスメイトにもイマイチ名前を覚えられていないゾンビ映画好きのボンクラ・前田の二人です。「桐島くんに最も近い男(=スクールカーストの頂点に近い男)」である宏樹は、彼の不在に大きく戸惑います。対して、前田は「桐島くんと一切関係がない男(=スクールカーストの底辺に近い男)」なので、「桐島くん」が学校に来ないことにも一切の関心を示さず、趣味の映画作りに勤しんでいます。全ての登場人物は、「桐島くん」との距離感、という点で宏樹と前田(+映画部の楽しい面々)との間に位置づけられます。多数の登場人物が複雑に絡み合う『桐島』が、一切の混乱を生まないのは、「桐島くんとの距離」が、登場人物ごとに緻密に設定されているからです。観客は、些細な会話や仕草から登場人物と「桐島くん」との距離を伺い知ることができるようになっています。

 『桐島』におけるマクガフィン「桐島くん」は、「スクールカーストの基準」と換言できると思います。つまり、学校を階級社会とみなし、そこでの位置づけに自覚的な人物(宏樹が代表例です)ほど、物差しである「桐島くん」の不在に影響され、反対に、学校での階級に無自覚な前田は、「桐島くん」の不在に影響されないのです。

 「なんでもできるけど、やりたいことがなにもない少年」である宏樹と、「なんにもできないけど、やりたいことだけはある少年」である前田は、「桐島くん」に象徴されるスクールカーストのなかでは比べるまでもない存在です。イケメンだから、運動神経がいいから、彼女がいるから。「桐島くん」みたいに。だから、宏樹は前田より上のカーストにいる。これが、『桐島』の物語が始まる前に彼らの学校を支配していたルールです。

 しかし、絶対の基準であったはずの「桐島くん」がいなくなってしまったことによって、この世界観は脆くも崩壊します。「桐島くん」が部活をやめてしまったことは、スクールカーストに縛られた学校、という狭い空間に限れば「世界の終わり」と言えるでしょう。そんなカタストロフを経ても変わらずに活き活きとしているのは、前田率いる映画部の面々です。カーストの上位にいる運動部の男子やオシャレな女子は、「桐島くん」以外に学校における価値の物差しを持っていません。彼ら/彼女らは、「桐島くん」抜きには、自分や他者を位置づけることができないのです。しかし、映画部の面々は違います。彼らは、「ゾンビ映画が好きだ」という、スクールカーストとは無関係な価値観で行動しています。そのため、学校を支配する桐島的な価値観がなくなっても、変わらず楽しくしていられるのです。

 『桐島』が提示する「世界の終わり」は、ある意味痛快です。「桐島くん」がいなくなったことで、スクールカーストが無効化された。ちゃらちゃらしたリア充(宏樹)より、趣味に生きるボンクラ(前田)のほうが、本当は人生をエンジョイしていることが証明された。ゾンビ映画バンザイ!

 『桐島』は、このような安易なオチを許しません。確かに、「桐島くん」が、部活を辞めたことによって、学校を支配するいくつかの息苦しい物差しは相対化されました。イケメンが偉い。運動部が偉い。そうした価値観を嫌う人は多いでしょう。『桐島』において、そういった価値観がいかに脆いかはハッキリと示されます。

 でも、「人間の価値は容姿や頭の良さやパートナーのレベルじゃ決まらないんだ」と言われて、本気で嬉しいですか?確かに宏樹はイケメンで、野球部なのにバスケも上手で、可愛い彼女がいます。羨ましい奴です。俺はイケメンじゃないから、私はリア充じゃないから。そう言って宏樹を妬み嫉むのは簡単です。でも、問題の本質はそこじゃない。宏樹はイケメンでリア充「なのに」退屈していて、前田はただの映画オタク「だけど」充実した生を送っている。この事実のほうがよほど残酷です。イケメンかどうか、リア充かどうかは、その人が生を謳歌しているかと「全く関係がない」。

 スクールカーストというのは、環境が変われば消えてしまうような弱いルールです。むしろ現実はスクールカーストよりタチが悪い。イケメンなら、頭がよければ、運動ができれば上にあがれるスクールカーストと違って、現実の生を充実させる方法に正解はありません。僕達は、真に自分の生を充実させる方法を探らなければならない。それは「桐島くん」になるより、よっぽど難しい。

 『桐島』は笑えるくらい当たり前で、ひどく残酷な現実をハッキリと突きつけてくる映画でした。最高に面白かったです。