こんぺいとう

 断線の話。

 夜中、20分弱かけてダウンロードしたMP3ファイルにくっついていたライナーノーツを読んでいたら、デジャヴが来た。初めて聴くアルバムだったから、これはきっとほんとうのデジャヴだと思う。知らずに同じ行動を繰り返していたとか、その手のボケではないと信じたい。まだ24歳だし。

 脳みその容量は想像以上に大きくて、生まれてから見聞き知ったことすべてを正しく覚えているのだ、とどこかで聞いたことがある。鍵を忘れた引き出しにも、確かに記憶は詰め込まれているのだとか。ほんとうかどうかは知らない。昨日の夜の懐かしさは、開かずの間にテキストファイルが挟み込まれたせいかもしれない。

 忘れたことは忘れたままでいいと思っている。忘れるのにも自分なりというか、脳なりというか、なんやかんやの事情があるのだと解釈している。留めて置きたい昨日とか去年とか10年前だとかは、口にするか文字に起こすか、甘噛みしてやればいい。

水星

 押し流される話。

 机に向かいながら、日がな一日tofubeatsくんの音楽を聴いていた。tofubeatsくんの名前は前から知っていたけれど、音源を聴いたのは昨日が初めてだ。ファン歴は2日ということになる。不思議な暖かさの音がとても気に入っている。年下の才能溢れる人がたくさんいるという状況は、自分がすこし大人になったようで、そんなに悪いもんじゃない。

 この飲み会は遠慮しようとか、このイベントはスルーだとか。好きな事を我慢するのがとても苦手な僕にとって、最近の生活はこなすだけでもなかなかの労力がいる。好きなことを好きなだけやるにはお金も時間もたくさんいるし、わがままを通すには、周りの寛容に甘えるかしっかりと能力を示すしかない。自分で組んだきつめのスケジュールに背中を押されて歩いていると、くびきの重たさに背中が丸まる。昨日マッサージをしてもらって体は多少軽くなったけれど、僕にを地面に押し付けているのが肩こりじゃないってことは自分が一番よくわかっている。水星とは言わないけれど、厄介事にケリをつけたら、どこか遠くに行きたいな。


 

 

河本のお母さんが生活保護貰ってた話について、僕が思ったこと

 メタな目線を導入しよう、という話。

 次長課長の河本のお母ちゃん(+α)が生活保護をもらっている、ということについて巷では大騒ぎなようで。これについてはすこし思うところがあったので、備忘録も兼ねて簡単に考えをまとめます。

 
 (1)関係者の人となりを一切無視する
 (2)生活保護の受給が不正だった
  (=河本のお母ちゃんは生活保護を貰うべき人ではなかった)

 という2つの仮定のもと、考えられる問題は以下の3つです。

 (A)生活保護の給付に関する判定水準がおかしい
 生活保護の給付に関する判定基準に問題があって、本来貰うべきではない河本のお母ちゃんも生活保護を貰えるようなシステムになっていた可能性があります。(解決策:誰に生活保護をあげるべきなのか、制度を再検討する)
 
 (B)生活保護の給付について、チェックがずさん
 生活保護に関する判定基準は正しく整備されていたものの、ルールの運用に問題があったのかもしれません。河本のお母ちゃんが「生活保護を貰うべきでない人」であることに、誰も気づかなかったのかもしれません。(解決策:ルールの運用状況を再検討する。給付を判定する人はきちんと働いていたか?それとも人手不足か?)

 (C)生活保護と労働のバランスが悪い
 上記2つの問題点があったとしても、生活保護にさほど魅力がなければ、河本の母ちゃんは生活保護を受けよう!とは思わなかったでしょう(すごくがめつい人だった可能性は置いといて)。ルールの穴をつきたくなるのは、それで得をするときだけです。お金を稼ぐには(基本的に)働くしかありませんから、「まともに働いてられるかよ!」と、河本の母ちゃんに思わせる何かがあったのかもしれません。(解決策:生活保護の給付額と、労働により得られる賃金の額のバランスを見直す。生活保護を減らすか、賃金を上げる)

 
 個別の事例を躍起になって持ち上げたところで、本質的な問題はなにも解決しません。メタな目線で問題を一般化して、今後のシステムの構築・運用に活かしてほしいなと思います。似たように生活保護を不正受給してる芸能人を見つけるとか、河本の私生活を過度に暴くとか、そういうもぐら叩き的な発想でニュースが消費されないことを強く望みます。適当なところで話を切りあげたら、一番とばっちりを食うのは、無用に猜疑の目を向けられる「本当に生活に困っていて、生活保護を受給している人」なのは明確です。

 

小夜子

 憧れの話。

 ああしたいこうしたいと自己嫌悪に陥る一方で、自分で自分を貶めるのは、僕を受け入れてくれている周囲の人々に対する裏切りかもしれない、とも思う。どうしたらいいかよくわからない。

ヘビーローテーション

 消費と表現の話。

 ぼんやりとした概念について考えるときは、対義語を思い浮かべることにしている。なにかを定義したいとき「なにであるか」を指し示すより「なにでないか」をよりわけるほうが、手っ取り早いからだ。

「消費」の対義語として真っ先に頭によぎったのは「生産」と「貯蓄」だった。とはいえ、まともに生産活動に参加せず、ろくに貯金もない僕にとって、この二つの単語はかなり縁遠い。消費の対義語として、僕は「表現」がしっくりくる。

表し現れる「ではない」のが消費だ。消し費やすこと。あまりいいイメージではない。クリエイターをもてはやすことはあれど、コンシューマーを讃える言葉はあまり見かけない。消費は表現に奉仕する行為なんだろうか?ファンあってのアーティストですから、という手触りのいい教科書的な物言い以外に、消費者を擁護する方法はないのだろうか。

消費すること、消費者であることそれ自体に、なにかポジティブな意味付けはできないだろうか。僕は、漫画やアニメや映画や小説、あらゆるコンテンツを消費してきた、している、するであろう自分を肯定したい。する必要があると思う。なぜなら、僕たちはみな、一生のうち長い長い時間を、消費者として過ごすだろうから。これから先ずっと関わる営みに、独自の価値が見出せないものか。思い込みでもいいから。

消費について考えるためには、表現について考えなければならない。表現するとはなんだろうか。立場を明らかにすることだ、と僕は思う。なにかに光を当てるということは、どこかに光を当てないということだ。「Aは素晴らしい」という態度を表明した/表現した人が、同時に「Aは最低だ」と語ることはできない。あらゆるクリエイターは、自らの問題設定に向き合わざるを得ない。賭ける、と換言してもいい。表現することは、なにかをクリエイトすることは、賭場に座ることだ。表現者として振舞う以上、人はチップを差し出さなければならない。

消費者であるということは、賭場に座らない唯一の方法ではないだろうか。一人のコンシューマーとして、僕たちは「Aは良い」「Aは悪い」という表現を同時に享受できる。無責任であることができる。アンビバレントな状態に身を置けるのは、消費者の特権だ。表現者にとって「Aは良くもあるし、悪くもある」というのは、チップの積み方の一類型でしかない。表し現れる主体は、その立場を定めることを強いられている。ふわふわと漂っていられるのは、消し費やす主体だけだ。

前言から翻るが、見方によっては、人は簡単に表現者に転げ落ちる。生活は、意識/無意識の細かな決断、すなわち表現の連続だからだ。一方で、消費者には、消費者にだけは、猶予が与えられている。態度を表明しない権利。意見を持たない権利。二律背反を丸呑みする権利。チップを差し出さずに賭場を眺め楽しむ権利が与えられている。表現、すなわち決断することが成熟の一つの形であるならば、人に残されたモラトリアムはあまりに少なく狭い。ほとんどない、と言ってもいい。だからこそ、消費だけは、表現=決断=成熟に抗うフロンティアとして、生活のなかに残しておいてもいいのではないかと思う。良し悪しや善悪の判断を一切挟まず、ただ楽しむ。対立するテーゼを、エンターテイメントとして甘受する。そういう瞬間を日々に設けておくことには、ポジティブな意味があると思う。表現に追われつづける日常の、わずかな木陰として。

もっとも、日々のほとんどを消費者としてのんべんだらりと過ごしている下等遊民である僕にとっては、決断こそが非日常かもしれない。表現のときが迫っている。決断をぶちかます時が近づいている。成熟しなければならない。今年のAKB総選挙、僕は大島優子に投票します。

How to go

 
 息苦しさの話。

 FBを見ていると、ほかではあまり感じたことのない類の疲れが残る。つい最近、正しさや楽しさばかりでは息が詰まってしまうのだと気づいた。FBには、みんなの晴れの一日が集まっている。
 
 顕名の繋がりにはポジティブな思い出が飛び交い、半匿名や匿名の繋がりにはネガティブな言葉が打ち捨てられている。隙間にこぼれた、名前のつけられない気持ちのようななにかが、行き場をなくしている。すこし息苦しい。

絶対に解ける問題 X=♥

 素朴な疑問の話。

 家についたら、両親がフェルマーの最終定理をモチーフにしたような、数学者が関わるサスペンス映画を見ていた。「裸エプロンの彼女が作ったパスタを、彼女の乳にぶっかけて食う」というわかりやすく倒錯したシーンで軽く昂った以外、特に面白そうでもなかったのでおとなしく自室に引っ込んできたけれど、ふとフェルマーの最終定理について疑問が浮かんだ。

 フェルマーの最終定理っていう激ムズい問題は、偉い数学者のフェルマーが「俺コレ証明できるけど、ページ足りないから書きれないやwwwwメンゴメンゴwwww」って言ったもんだから、みんな躍起になって証明しにかかったけど、何百年もずーっと未解決のままだった。数学が発展していろいろ難しい理論とかできて、日本人の谷村さんと志村さんのアイデアとか生かして、20世紀の終わりになってようやくワイルズって人が解いたらしい。

 ワイルズが証明に使った(数学的な)道具には、フェルマーの時代にはなかったものがたくさん含まれているみたい。志村さんはまだご存命なくらいだし。ということは、フェルマーは「俺証明できっからwww」と言っていたけれど、それは勘違いだったんだろうか。はたまた、今まで誰も思いついてないけど、フェルマーの時代にあったテクニックだけで、フェルマーの最終定理は証明できるんだろうか。どっちなんだろう。後者のほうがロマンティックでいいなと思いました。

 どちらもフェルマーの最終定理を扱った本。数学がわかんなくても、読み物としてとても面白いです。おすすめ。
 

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)