【微妙に】ヱヴァQについて【ネタバレ?】

 「俺こそが最もエヴァを理解している」という話。

 Q観てきました。うーん。これは「閉じている」んじゃないかな、と思いました。

 エヴァの魅力のコアが「謎めいた設定と、エキセントリックなキャラクター」にあるのは確実です。レイ可愛いとか、エヴァかっこいいとか、そういうデザインの魅力は勿論あるものの、やはり「わけのわからなさ」がエヴァのキーであるのは間違いない。Qは、そのコアの部分を強調し過ぎたあまり、せっかくアップデートされた周辺部分が隠れてしまっているんじゃないかな、と思います。

 この作品は完全に「重篤エヴァ患者」に向けて作られていて「ウェルメイドな新劇のファン」を置き去りにしてしまった、と思います。わけのわからなさで言えば、EOEに近い。Qには、EOEの衝撃を新劇のファンにも与える、という効果は確かにあるのかもしれない。でも、EOEはあくまでもTV版を前提としているのに対して、Qは序→破の流れで来ているから、果たして序→破と続けて楽しんできた観客がQを楽しめるかは、正直よくわかりません。難しいんじゃないかな、思います。取り越し苦労だといいのですが。

 ここまで壊れてしまった物語を、庵野秀明さんがどのように終わらせるのか、のんびり見守ろうと思います。

 ムーブメントがなー…閉じる気がするんだがなぁ…

 オタクのエヴァ語りはあくまで添え物でいいんじゃないかなと思っています。自分のそれも含めて。力強いエヴァが観たい。



 

『魔法少女まどか☆マギカ』を紹介します

 まどマギの話。

 先週の土曜日『魔法少女まどか☆マギカ』(以下、まどマギ)の劇場版を前編・後編と連続して観てきました。テレビアニメ版の再編集ということもあり、新展開は次作に持ち越されました。とはいえ、映画館の熱気はすごいものがあり、初めて『まどマギ』を観たときの感覚が蘇りました。『まどマギ』は、一見敷居が高いようにみえますが、寧ろ普段アニメを見ない人こそ楽しめる、普段アニメを見ない人にこそ見て欲しい、そういう作品です。なので、視聴にあたって妨げにあるであろういくつかの要素について、簡単にくっちゃべってみたいと思います。このエントリを読んで『まどマギ』に興味をもってくれたら嬉しいです。
 説明をするうえで、必然的にネタバレを含むことになるとは思います。ですが、それが気になるくらい『まどマギ』に興味津々な人は、僕のブログを読まずに劇場orTSUTAYAに走ってくださいwもっとも、このエントリを読んだからといって、視聴の興が削がれることはないと思います。

 『魔法少女まどか☆マギカ』は、2011年1月から放映されたテレビアニメです。全12話というコンパクトな構成ながら、周到に展開されるハードなストーリー、魅力的なキャラクターといった要素で人気を博しました。

 【非常に簡単なあらすじ】
 中学校二年生のまどかちゃん(基本的に無能)のところに、キュウべえと名乗るウサギ的な生き物が現れます。キュウべえは「おいまどかバカヤロー、貴様の願いをなんでも叶えてやるから、魔法少女になって魔女と戦わんかいコノヤロー」と、おいしそうな話を持ちかけてきます。しかし、どこからともなく現れた魔法少女、ほむらちゃん(黒髪ロング無愛想)は、まどかを魔法少女にしたくない模様。まどかの運命やいかに!?
 
 詳しい説明や批評家の皆さんによる評価はwikipediaを参照してもらうとして(すごく充実しているので、詳しく知りたい人にはオススメです)、僕なりに、なぜ『まどマギ』が普段アニメを見ない人に勧められるかを説明します。

 思うに、近年(ここ10年くらいのイメージです)のアニメは、アニメを構成する特定の要素を強調する傾向にありました。大別すると、こんな感じです。あくまで私見

(a)キャラクターの魅力を強調する
 (例:『けいおん!』『テニスの王子様』)
(b)難解な設定・ストーリーで興味を惹く
 (例:『攻殻』『東のエデン』)
(c)絵が動く快楽を追求する
 (例:ジブリ映画全般)

 それぞれのジャンルはそれぞれに魅力的な作品群を生み出してきましたが、先鋭化した故の弊害も生じたと思います。例えば、(a)の類の作品は、キャラクターに思い入れがある人には麻薬的な快楽をもたらしますが、刺激的なお話を求める人には食い足りません。(b)の作品群は、設定やストーリーを理解するのに時間がかかるため、必然的に敷居があがります。(c)のジャンルは、アトラクションとしては興味深いものの、どうしても「誰がなにをしたのかがよくわからないまま全てが終わる」という感覚を観客に与えてしまいます。誰か僕に『崖の上のポニョ』のストーリーを解説してください。
 
 このように、アニメの特定の要素にフォーカスすると、必然的に他の要素が後回しになり、結果的に視聴者を限定する羽目になります。その点『まどマギ』は、こうした要素がバランスよく高い水準に保たれています。『まどマギ』アニメの持つ多様な魅力が一度に味わえる、とってもお得な作品だと思います。そこで、「キャラクター」「設定・ストーリー」「ビジュアルイメージ」の三つに分けて『まどマギ』の興味深い点、こんなところに注目して欲しい点を挙げていきます。

 【キャラクターについて】
 『まどマギ』には、非常に少数のキャラクターしか登場しません(理由は後ほど)。見ていて誰が誰だか混乱することは特にないと思います。
 もっとも、髪の毛の色が奇抜だったり、輪郭がホームベース状だったりと、普段アニメを見ない人には戸惑いを覚える表現が沢山あります。ちょっと気持ち悪いなと思った方も、ここはひとつだまされたと思って我慢して観てみてください。アニメ(漫画もかな)を見る上で重要な意識として「見立て」があります。つまり「この奇妙な見た目の生き物、これは人間を表しているのだな」というつもりで観る、ということです。アニメを見ていると、どうしてこんな見た目のキャラクターに感情移入できるのだろうと、我ながら不思議に思うことが多々あります。『まどマギ』のキャラクターにも、その感覚をよく抱きます。
 キャラクターデザインにとっつくにくさを感じてしまった人は是非「見立て」の意識をもって観てみてください。キャラクターに感情移入させるのは作り手の腕の見せ所ですし、面白いコンテンツに感情を引っ張られるのは気持ちのいいものです。魔法少女は全部で5人程出てきますから、お気に入りのキャラクターを見つけるのも面白いかな、と思います。僕はさやかちゃん派です。

 【設定・ストーリーについて】
 まずは設定について。『まどマギ』は、タイトルにある通り、所謂「魔法少女モノ」のひとつです。魔法少女モノで有名な作品は、『魔法使いサリー』『セーラームーン』『プリキュア』などなど。誰でも子どもの頃にこうした作品に一度は触れたことがあると思います。ちなみに僕はセーラームーンは一話から最終話まで全部通して観てます。マーキュリー派です。
 「魔法少女モノ」には、いくつかのお約束があります。
・少女が主人公であること
・少女が何らのアイテムを用いて変身すること
・少女のパートナーとして、マスコットが登場すること
 大体こんなところでしょうか。『まどマギ』も、この構造を忠実になぞっています。5人の主要キャラクター(まどか、ほむら、さやか、マミ、杏子)はみな10代前半ですし、魔法少女の証として「ソウルジェム」という宝石のようなものが出てきます。あらすじで出てきた「キュウべえ(通称QB)」が、マスコットにあたります。この辺り『まどマギ』は、非常にオーソドックスに魔法少女モノのルールをなぞっています。
 ところが、基本に忠実な設定とは裏腹に『まどマギ』のストーリーは「魔法少女モノ」のスタンダードからは大きく外れています。物語のトーンは暗く、展開はかなりハードです。サスペンス的であると言えます。非常に興味深いのは『まどマギ』は「魔法少女モノらしくない」のではなく「とても魔法少女モノらしいのに、異様」なところです。なぜならば、お約束は一つも破られていないからです。一般的に認識されているお約束を忠実に踏襲しながら、それら全てを悪用する、とても意地悪な物語だと言えるでしょう。
 『まどマギ』を見る際には、是非頭のなかに「セーラームーンって、こんな話だったよなあ」というぼんやりしたイメージをもって観てみてください。確実に度肝を抜かれると想います。「設定の裏をかいてくる」のが『まどマギ』の魅力です。

 【ビジュアルイメージ】
 ここまで読んでくれた方のなかには「よっしゃ、ちょっと見てみるか」と思ってくれる方もいるかもしれません。ですが、いざアニメが始まってみると、かなり奇妙な世界が広がっていて、戸惑ってしまう可能性があります。というのも『まどマギ』の世界は
・発話する登場人物以外、人間がほとんど出てこない
・同じ建物が繰り返し登場する
・ビルや校舎が異様に高い
・非現実的な風景
といった、現実世界(や、一般的なアニメ)とかけ離れた見た目だからです。個人的には、こうしたビジュアルイメージの特異さが、初見の人には一番気になるんじゃないかな、と思います。
 馴染みのあるアニメ、例えばドラゴンボールを思い浮かべてみてください。ドラゴンボールでは、本筋とは関係ない群集、道行く人もしっかりと描かれています。勿論「人気のないところで戦う」というシーンはありますが、それには必ず合理的な理由があります。ドラゴンボールにはロードムービーの側面もあるので、場面展開も多いです。悟空はすぐ飛ぶし。建物のデザインも、統一感が保たれています。
 ところが『まどマギ』はそうではありません。『まどマギ』の場合、前述した主要な人物たちと、彼女たちに関わるごくごく少数の人々以外、人がほとんど登場しません。登場しない、というのは、背景として描かれている、という意味ではなく、文字通り画面に現れていない、という意味です。申し訳程度に、時折「クラスメイト」「街の人々」が描かれますが、ほとんどの場面において「群集」「通行人」は登場しません。まるで『まどマギ』の世界には、魔法少女たち以外の人間が殆ど存在しないかのようです。
 同時に『まどマギ』では、同じ場所・同じ構図のシーンが連続することにすぐ気づくと思います。例えば、まどかちゃんとさやかちゃんが相談事をするのは、必ず校舎の屋上です。二人が食事をするシーンで描かれるファストフード店も、毎度同じ場所、同じ席です。通学路も、まったく同じ場所・構図が、何度も描かれますそして、そして、それらの場所のどこにも、彼女たち以外の人はいません。
 関わりのない人間が出てこない『まどマギ』の世界において、逆に存在感があるのは建物を含む風景です。ビルひとつとっても、非常に特徴的な描かれ方をしています。とにかく高い。窓がたくさんあります。そして、ドアがかたく閉じられています。その他にも、異様な風景(角地に建った豪邸、床がスッカスカの歩道橋、など)がたくさん登場するので、何の気なしに見ると面食らいと思います。
 こうした奇妙な風景描写は、すべて「登場人物の心象風景」だと解釈すれば、合点がいくと思います。道行く人が一切描かれないのは、彼ら/彼女らが、まどか達の意識の外にいるから。同じ場面が連続するのは、そこがまどか達にとってお馴染みの場所で、中学生であるまどか達は、街の中でも限られた一部分しか認識していないからです。彼女達が立ち入ることのないビルは、実際以上に高く感じられているのです。
 つまり、この作品を見るときは「物語を見ている、客観的な自分」を意識すると、あまりうまくいかない、ということです。少なくとも、上に挙げた特徴的なビジュアルイメージに慣れていない人は、一歩引いた目で見ると、ストーリー以上に突っ込みどころが気になってしまうと思います。『まどマギ』は、徹頭徹尾、魔法少女達の物語です。世界観も、その描かれ方も、すべてが彼女達に奉仕しています。なので、奇妙な絵に面食らってしまいそうなときは「ああ、まどか達には、こんな風に世界が見えているんだな」と思ってあげると、理解しやすいかもしれません。

 【まとめ】
 長々書いてきましたが『魔法少女まどか☆マギカ』を見るうえで意識するといいポイントは、以下のふたつです。
・アニメが「見立て」のエンタメであることを念頭に置く。
・「魔法少女モノ」が、王道から外れていくのを楽しむ
この2点を頭の隅においておけば、きっと楽しく観られると思います。劇場版でもTV版でもどっちでもいいとは思いますが、お手軽なのはTV版だと思います。外に出るのが億劫なお休みの日にでも、是非どうぞ。

『桐島』にまつわる妄想あれこれ(ネタバレ全開)

  映画の話の続き。

 まだまだ語り足りない!でも、全然まとまってない!なので、ブログにだらだら書くことにしました。オチも含めてネタバレ全開なのでご注意を。気になった登場人物ごとに、少しずつ。


 ・前田(神木隆之介)について
 屈託のなさに好感が持てました。前田はスクールカースト的なものに縛られている様子が一切無くて、それが気になる(「実際のオタクはもっと自意識にまみれてる!」ってこと)人もいるようで。だけど、彼は単に消費するだけのオタクじゃなくて、ゾンビ映画が大好きで自分で作ってしまうくらいだから、自我はしっかりと確立しています。アイデンティティが強固、というか。
 高校生くらいの頃って鬱屈してて、僕も今以上に自意識過剰だった記憶があるんだけど、前田の場合趣味にかけるパワーが大きすぎて、その手の悩みがないんだと思います。これを「無邪気な子ども」と見るか、「自己を確立した表現者の卵」と見るかは人によって違うと思うんだけど、宏樹やかすみには後者に感じられたんじゃないかな。
 もっとも、前田は映画に夢中すぎて「〇〇な俺」っていうメタな目線を一切持ってない。だからこそ、ラストシーンではあんな残酷なことを平気で言ってしまう。すごくいいけど、思い返すとけっこう辛いシーンです。前田がビビりながらタメ口でぎこちないツッコミをいれるところが良かった。神木くんはすごくいい役者さんですね。
 よくよく考えてみると、前田は物腰が柔らかくて運動音痴なだけで、行動力もあるし隠れイケメンだし(当たり前か)、数年後にはかなりの伊達男になってるんじゃないかと思う。俺には見える!「ミサンガ事件」のトラウマを、映画サークルの後輩女子にぶつける前田が!!
 前田(ひねくれ大学生時代)のキメ台詞は「僕、ひとりで映画みたいからさ。服着て帰りなよ」ですね。


 ・かすみ(橋本愛)について
 作中ではトップクラスにオトナな人として描かれている彼女が竜汰(もじゃもじゃ。落合モトキ)と付き合っているのは、けっこうお似合いなんじゃないかな、と思いました。というのも、言動から察するに、竜汰は竜汰で、学校の無意味さというか、閉鎖性に気づいてるっぽいんだよね。友弘(パーカー。浅香航大)が「遊びのバスケを続ける理由」を真剣に考えちゃうのに対して、竜汰はそこをけっこうサラッと流してしまう。竜汰はそれが暇つぶしの遊びでしかないことに気づきながらも、敢えて乗っかっている。これは、かすみちゃんが仲良しグループのメンバーとつるむ理由とほぼ同じです。竜汰の方がだいぶぼんやりとではあるけれど、かすみちゃんと竜汰は、「桐島的な世界」への態度がよく似ている。だから、馬が合うんだと思います。やっぱ竜汰は地獄に落ちるべきだ。
 かすみちゃんと前田だけは作中で私服が出てくるんだけど、かすみちゃんのお召し物が高校生にしてはやけに大人びていてドキドキしました。あんなJKいるのかな。髪の毛つやつや!
 

 ・武文(前野朋哉)について
 「学校のルールの脆さをわかっている」という意味では、かすみに通じるキャラクター。武文の場合は、カースト底辺ゆえに上位の面々を馬鹿にする言動になっていますが。前田と武文ではだいぶ精神年齢に差がありそうな感じがするけど、そんなふたりが当たり前のように仲良くやっている、というのがすごくいい。かなりお気に入りのキャラです。

 
 ・沙奈(松岡茉優)について 
 ある意味スクールカーストの一番の被害者だと思います。かすみほど成熟しているわけでもなく、実果(清水くるみ)のように打ち込む対象があるわけではない。しかも、彼女が梨紗(山本美月)の腰巾着であることは、当人を含む誰の目にも明らかです。彼女が過剰に空気を読んでしまうのには、理由がある。
 『桐島』のキャラクターは極めて実在感のある面々ばかりですが、沙奈のリアリティは異様なほどでした。僕自身がああいう人と深く関わったわけではないけれど、教室や街のマックで、あんな感じの声が高い女の子を幾度と無く見てきた気がします。ああいう「女の子らしい女の子」に拒否反応を示す男は多いし、僕もあんまり得意じゃないけど、沙奈に代表される「彼女たち」の悲哀も、なんとなく分かるような気がするのです。隣に華やかな梨紗がいるのはきついし、黙ってるかすみは実は超絶美人だし。それに、おとなしめの男子からは実果が一番モテそうだ!そう考えると、沙奈が少しひねくれてしまうのも仕方がないような。
 屋上で彼女が久保(鈴木伸之)と前田の喧嘩をけしかけるシーンには、沙奈の「なんでもいいから、息苦しさを紛らわせたい」という欲望が現れていると感じました。他人をダシにそんなことするから、かすみに平手打ちを食らうんだけど。
 沙奈は適当にチャラチャラした大学生活を経て、そこそこの男と結婚し、FBに写真を上げまくる感じの人になるでしょう。ふと思ったけど、「沢島(大後寿々花)の純情を踏みにじりやがって!クソビッチが!」とか言ってる男に限って、沙奈みたいな子に愛想よくされたらコロッといきそうだよね。


 ・野球部のキャプテン(高橋周平)について
 最高。


 ・友弘(パーカー。浅香航大)について
 俺、あんな感じの高校生でした。

『桐島、部活やめるってよ』 

 映画の話。

 話題の『桐島、部活やめるってよ』を見てきました。頭のなかを色んな言葉が巡ってうるさいので、安眠するために感想を書きます。ぼんやりネタバレします。

 『桐島』の物語は、バレー部キャプテンで成績優秀、彼女は校内屈指の美女という、スクールカースト(生徒のヒエラルキーのことです)の頂点に君臨する「桐島くん」が突然部活を辞め、学校を休んだことをきっかけに動き出します。「桐島くん」の不在に、登場人物たちは多種多様な反応を見せます『桐島』は、高校生の微妙な人間関係とささやかな成長、そして挫折を描いた群像劇です。

 「桐島くんと親しい人ほど彼の不在に影響される」という鉄の掟がこの物語を支配しています。ストーリーの中心を担うのは、野球部の幽霊部員で可愛い彼女がいる運動神経抜群の冷めたイケメン・宏樹と、クラスメイトにもイマイチ名前を覚えられていないゾンビ映画好きのボンクラ・前田の二人です。「桐島くんに最も近い男(=スクールカーストの頂点に近い男)」である宏樹は、彼の不在に大きく戸惑います。対して、前田は「桐島くんと一切関係がない男(=スクールカーストの底辺に近い男)」なので、「桐島くん」が学校に来ないことにも一切の関心を示さず、趣味の映画作りに勤しんでいます。全ての登場人物は、「桐島くん」との距離感、という点で宏樹と前田(+映画部の楽しい面々)との間に位置づけられます。多数の登場人物が複雑に絡み合う『桐島』が、一切の混乱を生まないのは、「桐島くんとの距離」が、登場人物ごとに緻密に設定されているからです。観客は、些細な会話や仕草から登場人物と「桐島くん」との距離を伺い知ることができるようになっています。

 『桐島』におけるマクガフィン「桐島くん」は、「スクールカーストの基準」と換言できると思います。つまり、学校を階級社会とみなし、そこでの位置づけに自覚的な人物(宏樹が代表例です)ほど、物差しである「桐島くん」の不在に影響され、反対に、学校での階級に無自覚な前田は、「桐島くん」の不在に影響されないのです。

 「なんでもできるけど、やりたいことがなにもない少年」である宏樹と、「なんにもできないけど、やりたいことだけはある少年」である前田は、「桐島くん」に象徴されるスクールカーストのなかでは比べるまでもない存在です。イケメンだから、運動神経がいいから、彼女がいるから。「桐島くん」みたいに。だから、宏樹は前田より上のカーストにいる。これが、『桐島』の物語が始まる前に彼らの学校を支配していたルールです。

 しかし、絶対の基準であったはずの「桐島くん」がいなくなってしまったことによって、この世界観は脆くも崩壊します。「桐島くん」が部活をやめてしまったことは、スクールカーストに縛られた学校、という狭い空間に限れば「世界の終わり」と言えるでしょう。そんなカタストロフを経ても変わらずに活き活きとしているのは、前田率いる映画部の面々です。カーストの上位にいる運動部の男子やオシャレな女子は、「桐島くん」以外に学校における価値の物差しを持っていません。彼ら/彼女らは、「桐島くん」抜きには、自分や他者を位置づけることができないのです。しかし、映画部の面々は違います。彼らは、「ゾンビ映画が好きだ」という、スクールカーストとは無関係な価値観で行動しています。そのため、学校を支配する桐島的な価値観がなくなっても、変わらず楽しくしていられるのです。

 『桐島』が提示する「世界の終わり」は、ある意味痛快です。「桐島くん」がいなくなったことで、スクールカーストが無効化された。ちゃらちゃらしたリア充(宏樹)より、趣味に生きるボンクラ(前田)のほうが、本当は人生をエンジョイしていることが証明された。ゾンビ映画バンザイ!

 『桐島』は、このような安易なオチを許しません。確かに、「桐島くん」が、部活を辞めたことによって、学校を支配するいくつかの息苦しい物差しは相対化されました。イケメンが偉い。運動部が偉い。そうした価値観を嫌う人は多いでしょう。『桐島』において、そういった価値観がいかに脆いかはハッキリと示されます。

 でも、「人間の価値は容姿や頭の良さやパートナーのレベルじゃ決まらないんだ」と言われて、本気で嬉しいですか?確かに宏樹はイケメンで、野球部なのにバスケも上手で、可愛い彼女がいます。羨ましい奴です。俺はイケメンじゃないから、私はリア充じゃないから。そう言って宏樹を妬み嫉むのは簡単です。でも、問題の本質はそこじゃない。宏樹はイケメンでリア充「なのに」退屈していて、前田はただの映画オタク「だけど」充実した生を送っている。この事実のほうがよほど残酷です。イケメンかどうか、リア充かどうかは、その人が生を謳歌しているかと「全く関係がない」。

 スクールカーストというのは、環境が変われば消えてしまうような弱いルールです。むしろ現実はスクールカーストよりタチが悪い。イケメンなら、頭がよければ、運動ができれば上にあがれるスクールカーストと違って、現実の生を充実させる方法に正解はありません。僕達は、真に自分の生を充実させる方法を探らなければならない。それは「桐島くん」になるより、よっぽど難しい。

 『桐島』は笑えるくらい当たり前で、ひどく残酷な現実をハッキリと突きつけてくる映画でした。最高に面白かったです。

アシンメトリー

 欲望の話。

 人はなぜ自分の欲望を見逃しがちなのか、ということについてぼんやり考えていた。もっと楽しいことを考えればいいのに、ほんとうにそんなことを考えながら井の頭線に揺られているのだから、僕もなかなかの変人じゃないかと思わずにはいられない。

 「見えないのは、見たくないからである」というのは、僕が内田樹の本から学んだ重要な教訓の一つだ。人は見たいものしか見ない。見えていない、と思っても実のところ、人は目を逸らしている。そこには運動が存在している。そんなようなことを読んだ。

 知らずのうちに目を背けている欲望、それはきっとささやかで無害で、だからこそ切実で決して直視したくない類のものに違いない。非日常の博覧会のようなFB、日常の掃き溜めと化したtwitterを眺めながら、僕にも視界の外に追いやった欲望があるか考えてみた。もちろん、そんなものは見つからなかった。見たくないからに他ならない。

oath sign

 前置きの話。

 自分の喋り方について考えている。地ならしのつもりの前置きにも、人は意味を見出してしまう。正しく自分の考えを言葉にするというのと、正しく自分の気持ちを伝えるというのは、とても似ているけれどすこし違うのだと今更気づいた。慎重な言葉は祈りを運んでくれないこともある。祈りは祈りのまま、無造作に放り投げなければならないこともある。

 

gravity

 
 体重の話。

 久々に体重計に乗ったら、なかなかヘビーな数値が。ここ最近は節制していたから、ちょっと前のピーク時はけっこうやばかったんじゃないかと思う。これで煙草をやめたら(予定はないけど)俺の体重は一体どうなるのか。カービィみたいな体型になったらどうしよう。

 とてもかっこいい演奏の前に、尋常ではない気持ち悪さのMCがくっついている。むしろMCが本編なのか。これはきもかっこいいの範疇なのか。僕にはわかりません。「ぐらびつぃー…」ってなんじゃい