『学者アラムハラドの見た着物』

 本の話。

 青空文庫で、宮沢賢治『学者アラムハラドの見た着物』を読んだ。
  
 第一章の末尾。高名な学者であるアラムハラドは、人の本質を愛弟子たちに説く。

 うん。そうだ。人はまことを求める。真理を求める。ほんとうの道を求めるのだ。人が道を求めないでいられないことはちょうど鳥の飛ばないでいられないとおんなじだ。おまえたちはよくおぼえなければいけない。人は善を愛し道を求めないでいられない。それが人の性質だ。これをおまえたちは堅くおぼえてあとでも決して忘れてはいけない。おまえたちはみなこれから人生という非常なけわしいみちをあるかなければならない。たとえばそれは葱嶺の氷や辛度の流れや流沙の火やでいっぱいなようなものだ。そのどこを通るときも決して今の二つを忘れてはいけない。それはおまえたちをまもる。それはいつもおまえたちを教える。決して忘れてはいけない。

 強烈な価値観をぶつけられると、内省せずにはいられない。これを読んでいるあなたにも、僕にも、「善を愛し道を求める」性質があるのだろうか?

 第一章の冒頭。

 学者のアラムハラドはある年十一人の子を教えておりました。
 みんな立派なうちの子どもらばかりでした。

 
 アラムハラドが掲げているのは、ただの建前ではないのか?「立派なうちの子どもら」に、おとぎ話を聞かせているだけではないのか?アラムハラドは、宮沢賢治は、あなたや僕や醜さ卑しさに対しても、人は「善を愛し道を求める」ものだと断言できるだろうか?

 僕の意地悪な疑問は、浮かんだ瞬間に解決しているようなものだ。いまいちど彼の台詞を読めばわかる。アラムハラドが掲げているのは、ただの建前ではない。「立派なうちの子どもら」に、おとぎ話を聞かせているだけではない。アラムハラドは、宮沢賢治は、あなたや僕や醜さや卑しさに対しても、人は「善を愛し道を求める」ものだと断言できるだろう。

 彼の語ることの真贋は、僕には判断がつかない。でも、彼が一切の異心なく自分の言葉を信じていることは確かだ。それが文体の力である。宮沢賢治の込めた情熱の力である。僕はアラムハラドを、そして宮沢賢治を信じる。彼が真心から語っているのだと信じる。美しい言葉で語られているから。切実であるから。

 『学者アラムハラドの見た着物』は、第二章に半歩踏み込んだところで唐突に切れる。宮沢賢治が臥せったのか、執筆に飽きたのか。

 物語は起こったばかりであるから、承り転び結ぶなかで、アラムハラドは翻心するのかもしれない。自らの信念を放棄するかもしれない。それでもなお、彼の言葉はその瞬間の彼の本音そのものである。それはただ文体と情熱によって判断するほかない。客観的な事実は枝葉に過ぎない。文体と情熱によってしか、人は人を信じさせることができない。説得力とはそういうものだ、と僕は思っている。

 
 宮沢賢治についてはまったくの無知だったけれど、好きな人が多い理由がちょっとわかりました。こんなに誠実な物語を書かれたら、読む側の背筋も伸びてしまうなぁ。いつもより口調が固いのは、真っ直ぐな物語を読んだせい。とても短いので、通勤通学の途中にでもどうぞ。疲れてるときに読んだら、きっと元気になれるはず。おすすめです。